春間近‐斎宮ぶらぶら記②
(明和町の地名「斎宮」は「さいぐう」ではなく「さいくう」と読みます)
塚山古墳から東へ進み、歴史の道を南下すると上園芝生広場に到着します。
平日の昼下がり。すれ違う人もほとんどおらずのどかな空気が漂っています。
ぶらぶらと東に向かって歩くと、史跡公園「さいくう平安の杜」が見えてきます。
この3棟は遺跡の真上に復元されています。
残念ながら、正殿には入れませんが、西脇殿は建物内を見学できる
ようになっています。中でイベント等ができるようになっているので、
多少現代的な物が多くありますが、中ではボランティアの方が色々と
説明してくれて勉強になりました(西脇殿は内部公開をするため、
耐震強度の観点から柱には現代の知恵と技術が使われているそうです)。
斎宮の建物は瓦ではなく檜皮葺、または茅葺だったそうです。
というのも。瓦は仏教的象徴なので、日本独自の宗教の象徴たる
伊勢神宮に連なる斎宮としては、瓦や仏教的な物・単語はご法度、というわけです。
また、柱は腐るのを防ぐために通常礎石という物の上に立てられますが、
斎宮の建物には礎石が無いことが発掘からわかっています。
このさいくう平安の杜の南に斎宮の重要区画「内院」があったそうですが、
現在ここには線路が走っていて発掘は困難、残念・・・。
斎王制度が終ったのが1336年(鎌倉時代終焉 1333年)。
当時すでに荒廃が進んでいたようです。そこから1970年(昭和45年)の宅地開発で
斎宮が発掘されるまで、長く斎宮は土の中に。
1970年の大きな発見以前にも、明治時代以降、ぽつぽつと斎宮について
調べる方、斎宮を保存しようというグループができたようです。
1930年(昭和5年)に近鉄山田線が開通し、斎宮駅もその時設置された
ことからも、その当時、地域には確かな存在の証が多くはなくても、地域の人達は
斎宮を身近に感じていたのかと推測します。
斎王の存在を含め斎宮に関するストーリーは、2016年4月に日本遺産に指定
されました。
現在発掘によって明らかになっている斎宮の方形区画の全体像は、
上園芝広場にある「10分の1史跡全体模型」でみることができます。
この全体模型(写真の右側、盛り土になっている所)の直ぐ後ろには
いつきのみや歴史体験館が!これまた雅な建物です。
手前の黒い土の所では、古代米である黒米・赤米の栽培が行われます。
平城京跡同様、遺跡保護の為その上には物を建てることは極力したくない
所(再発掘もしにくくなるし)。しかし広い土地を何もせずに放置するのも
美観を損ねてしまうので、こういう取組はいいですね。体験学習の一部にも
なっているそうです。
写真はありませんが、色々巡ってとても満足しました。
が、ここからが本番!
(*´Д`*)
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